千葉県の高校リスト

拓大紅陵高校出身のプロ野球選手

手嶌智 (拓大紅陵高→新日本石油 投手) 2004年 千葉ロッテマリーンズ 自由枠




















































2005 1 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 17 3.0 6 1 2 0 0 5 0 0 4 4 12.00
2006 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
2007 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
2008 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
2009 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
通算:5年 1 1 0 0 0 0 1 0 0 .000 17 3.0 6 1 2 0 0 5 0 0 4 4 12.00
備考 千葉県富津市出身。2004年、自由獲得枠で千葉ロッテマリーンズに入団。最速140km/h後半のストレートに加え、スライダー・チェンジアップ・フォークなどを投げる。2005年はファームで10勝を上げ、最多勝を獲得したが、制球や変化球に難があり、6月22日に一軍で初登板・初先発した際も甘く入ったチェンジアップを小笠原道大にレフトスタンドに運ばれるなどでノックアウトされている。以後は故障の影響などで二軍でも結果を残せない状態が続いた。制球が不安定な部分は解消されず、2009年10月1日、戦力外通告を受け引退。2010年度から球団スタッフになる。
高橋憲幸 (拓大紅陵高→日本石油 投手) 1996年 日本ハムファイターズ ドラフト5位




















































1997 47 0 0 0 0 2 2 0 - .500 166 35.2 39 4 19 1 3 25 2 0 21 19 4.79
1998 33 0 0 0 0 0 0 0 - - 150 35.2 26 3 15 1 1 22 0 0 18 16 4.04
1999 28 0 0 0 0 0 0 0 - - 74 17.0 23 4 2 0 0 9 1 0 13 12 6.35
2000 31 0 0 0 0 4 1 1 - .800 189 42.2 41 4 17 3 2 43 2 0 19 15 3.16
2001 59 0 0 0 0 0 4 0 - .000 188 46.0 43 10 10 0 4 38 1 0 21 21 4.11
2002 9 0 0 0 0 0 0 0 - - 21 4.1 7 0 1 0 0 2 0 0 2 2 4.15
2003 55 0 0 0 0 3 3 0 - .500 210 50.0 44 7 16 4 1 27 3 0 19 17 3.06
2004 10 0 0 0 0 0 0 0 - - 35 8.2 8 1 2 0 0 11 1 0 3 3 3.12
2005 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
通算:9年 272 0 0 0 0 9 10 1 - .474 1033 240.0 231 33 82 9 11 177 10 0 116 105 3.94
備考 群馬県高崎市出身。拓大紅陵高校時代、1988年の第70回全国高等学校野球選手権大会に出場。その後日本石油に入社、同社硬式野球部では1995年の第66回都市対抗野球大会制覇に貢献して橋戸賞を受賞。1996年のドラフト5位で日本ハムに入団。1年目の1997年から中継ぎ投手として活躍し、47試合に登板。2001年には59試合に登板。同年4月26日の対ダイエー戦(東京ドーム)ではトニー・ミッチェルに死球を与え乱闘騒ぎになり、チームメイトの金子誠が右フックを頬に受けた。その後も2002年シーズンを除いては中継ぎとして試合登板を重ね、渋い活躍を見せていたが、2004年4月には買い物の途中に自転車で転倒、左ほお骨骨折と左肩鎖骨脱臼の重傷を負う。それ以降は1軍での登板機会がなく、2005年に戦力外通告を受け任意引退、監督の落合博満(日本ハムの同僚)との縁から2006年は中日ドラゴンズの打撃投手を務めた。2007年からは古巣である新日本石油ENEOS・JX-ENEOSの投手コーチを務め、監督の大久保秀昭と共にチームの強化に心血を注き、田澤純一・三上朋也などを育て上げた。2014年年11月9日に日本ハムの2軍投手コーチに就任することが発表された。
立川隆史 (拓大紅陵高 外野手) 1993年 千葉ロッテマリーンズ ドラフト2位
















































1994 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1995 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1996 14 31 29 3 5 0 0 0 5 0 0 0 0 0 2 0 0 6 3 .172 .226 .172
1997 76 270 252 25 69 9 1 7 101 20 6 2 1 0 15 1 2 69 10 .274 .320 .401
1998 81 182 153 19 33 6 3 2 51 6 3 1 3 1 24 3 1 44 5 .216 .324 .333
1999 14 24 22 1 3 0 0 0 3 0 1 1 0 0 2 0 0 6 0 .136 .208 .136
2000 81 188 160 21 39 11 0 3 59 20 0 0 2 2 21 1 3 35 3 .244 .339 .369
2001 35 109 92 10 23 6 0 2 35 4 1 0 1 0 15 1 1 26 1 .250 .361 .380
2002 89 297 269 26 64 12 1 6 96 30 3 2 2 2 22 0 2 50 7 .238 .298 .357
2003 94 332 292 34 70 14 3 7 111 31 3 1 5 1 29 0 5 72 3 .240 .318 .380
2004 15 39 32 2 3 2 0 0 5 1 0 0 1 1 5 0 0 9 1 .094 .211 .156
31 43 35 4 6 0 0 1 9 5 0 1 0 1 6 0 1 8 2 .171 .302 .257
2005 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
通算:12年 530 1515 1336 145 315 60 8 28 475 117 17 8 15 8 141 6 15 325 35 .236 .314 .356
備考

千葉県千葉市出身。地元の名門である拓大紅陵高校に入学し、1992年の夏の甲子園大会にベンチ入り唯一の2年生および5番右翼手として出場。準々決勝で9回に逆転2点本塁打を放つなど活躍。その年同校は準優勝した。立川は高校野球時代を通じて通算32本塁打を記録。この活躍が評価されドラフト2位でロッテマリーンズに入団する。

多田昌弘 (拓大紅陵高 投手) 1992年 広島東洋カープ ドラフト6位




















































1993 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1994 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
通算:2年 一軍公式戦出場なし
備考 千葉県市原市出身。拓大紅陵高のセレクションで不合格となるが一般入試に合格。1年後輩に立川隆史がいた。1992年、3年の第74回全国高等学校野球選手権大会にはエース富樫、杉本、紺野、多田の4人で投手陣を組み準優勝。初戦から準決勝まで全て別の投手が勝ち投手になるという史上初の快挙を記録した。投手陣の中でスカウトの評価が最も高かったのは多田だった。卒業後は就職して野球を続けるつもりだったが、同年のドラフト会議で広島東洋カープから6位指名されプロ入りした。1年目の1993年は左肘を故障したが二軍で13試合に登板し防御率3.48、2年目は11試合に登板し初勝利も挙げるがオフに戦力外通告を受ける。同時に打撃投手を打診され「頑張れば現役に戻すこともありうる」との言葉を頼りに引き受ける。転向後、一人で打撃練習する金本知憲の手伝いをするうちに親しくなり、左投手を苦手にしていた金本の絶好の練習相手となり、「金本の恋人」とまで言われた。2002年の夏に左肘の故障が再発。金本に連れられて各地の有名治療院にかかり回復したが宮崎キャンプに合流した11月、金本のFA宣言を知る。同月下旬、阪神への移籍が決まった金本から同伴移籍を勧められ、自ら広島を退団。同年12月12日に阪神に打撃投手として入団した。
和田孝志 (拓大紅陵高→東洋大 投手) 1992年 千葉ロッテマリーンズ ドラフト3位




















































1993 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1994 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1995 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1996 4 0 0 0 0 0 0 0 - - 21 5.1 5 0 1 0 0 7 1 0 1 0 0.00
1997 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1998 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1999 6 0 0 0 0 0 0 0 - - 34 9.0 5 0 4 0 0 5 0 1 0 0 0.00
2000 21 2 0 0 0 1 1 0 - .500 210 50.0 44 6 19 2 1 35 3 0 21 20 3.60
2001 38 2 0 0 0 1 2 0 - .333 301 68.0 67 10 32 1 3 42 2 0 38 35 4.63
2002 3 0 0 0 0 0 0 0 - - 19 5.0 4 1 1 0 0 2 0 0 3 1 1.80
通算:10年 72 4 0 0 0 2 3 0 - .400 585 137.1 125 17 57 3 4 91 6 1 63 56 3.67
備考 埼玉県春日部市出身。拓大紅陵高から東洋大に進学。東都大学リーグでは2年春にリーグ10人目のノーヒットノーランを達成する。リーグ通算49試合登板、14勝15敗、防御率2.68、172奪三振。1993年、ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズに入団。1995年は1A・バイセイリア・オークスに野球留学した。2002年に現役引退。引退後はロッテのチームスタッフとしてスコアラー、打撃投手、査定を担当。2005年の日本一を経験し同年退団、飲食業の道へ。石井浩郎が社長を務めるH・Iグループを経て、渋谷宮益坂に和食ダイニング「美醤(びしょう)」を2007年6月開業。また、ハタケヤマのスーパーバイザーも勤める。2009年にはロッテの二軍投手コーチ補佐を務めた。
小林敦司 (拓大紅陵高 投手) 1990年 広島東洋カープ ドラフト5位




















































1991 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1992 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1993 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1994 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1995 16 2 0 0 0 1 0 0 - 1.000 111 25.1 20 4 16 2 2 17 0 1 13 11 3.91
1996 3 0 0 0 0 0 1 0 - .000 10 2.1 3 1 0 0 0 1 0 0 2 2 7.71
1997 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1998 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1999 30 0 0 0 0 0 0 0 - - 122 28.2 25 2 16 1 2 14 0 0 15 7 2.20
2000 4 0 0 0 0 0 0 0 - - 42 9.0 11 3 6 0 1 10 0 0 10 10 10.00
2001 6 0 0 0 0 0 0 0 - - 38 6.1 7 0 11 0 1 6 0 0 6 5 7.11
通算:11年 59 2 0 0 0 1 1 0 - .500 323 71.2 66 10 49 3 6 48 0 1 46 35 4.40
備考

東京都北区出身。拓大紅陵高校から1990年のドラフト5位で広島東洋カープに入団。入団当初は本人によればストレートは速いとは言えず、コントロールも悪かった。3年目の1993年にサイドスローに転向した。サイドスロー転向後はスライダーの切れが良くなり制球も安定する。入団以来4年間、1軍登板の機会はなかったが、1995年に1軍昇格してようやくプロ初勝利を記録、主に中継ぎ投手として起用された。1996年には右膝を痛め靭帯の再建手術を行った。復帰後の1999年には自己最多の30試合に登板して防御率2点台前半の好成績を残し、同姓の小林幹英との継投パターンは「あつかんリレー」と呼ばれた。これ以降は伸び悩み登板試合は激減し、成績も下降線を辿った。2000年11月に広島から戦力外通告を受け、千葉ロッテマリーンズにテスト入団するが6試合の登板にとどまり、わずか1年で戦力外通告。2001年11月に28歳の若さで現役を引退。

知野公昭 (拓大紅陵高 投手) 1989年 横浜大洋ホエールズ ドラフト6位




















































1990 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1991 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1992 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1993 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1994 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
通算:5年 一軍公式戦出場なし
備考 千葉県出身。拓殖大学紅陵高等学校から1989年、ドラフト6位で横浜大洋ホエールズに入団。高校3年生の夏の高校野球千葉県予選で決勝まで進出させた長身右腕。高校3年間で47試合に登板し、28勝6敗、防御率0.84という記録を残す。140キロ前半のストレートが武器だったが、チャンスに恵まれず、サイドスロー転向などに挑戦したが一軍昇格できず引退した。引退後は保険会社の営業をしている。
小川博文 (拓大紅陵高→プリンスホテル 内野手) 1988年 オリックスブレーブス ドラフト2位
















































1989 115 391 344 36 85 11 4 5 119 32 7 6 24 2 20 0 1 44 7 .247 .289 .346
1990 125 436 385 43 100 13 1 5 130 41 22 7 14 2 33 0 2 84 10 .260 .320 .338
1991 130 571 495 57 135 24 2 5 178 48 8 6 28 6 42 0 0 57 12 .273 .326 .360
1992 103 396 344 39 100 23 1 3 134 38 3 1 24 5 20 1 3 54 8 .291 .331 .390
1993 125 465 414 36 106 18 2 8 152 36 8 5 12 2 37 1 0 72 12 .256 .316 .367
1994 126 527 459 48 139 17 5 4 178 53 2 4 13 8 44 0 3 70 15 .303 .362 .388
1995 120 422 379 44 103 20 3 6 147 38 0 3 11 2 30 0 0 66 12 .272 .324 .388
1996 110 351 313 42 90 14 0 9 131 38 1 2 9 2 26 3 1 55 9 .288 .342 .419
1997 120 407 372 40 87 11 2 11 135 38 4 1 7 3 24 0 1 73 8 .234 .280 .363
1998 102 319 290 30 69 14 0 7 104 27 0 2 3 1 24 4 1 64 10 .238 .297 .359
1999 112 367 321 40 88 16 0 6 122 37 2 2 4 3 39 1 0 66 13 .274 .350 .380
2000 101 269 241 28 63 10 0 5 88 45 3 1 1 3 24 1 0 66 4 .261 .325 .365
2001 131 496 420 48 111 16 0 15 172 65 3 2 10 9 57 2 0 100 13 .264 .346 .410
2002 119 396 352 28 92 15 2 7 132 44 1 1 6 5 32 1 1 76 5 .261 .321 .375
2003 81 160 147 15 38 3 0 4 53 17 0 1 2 1 9 1 1 26 5 .259 .304 .361
2004 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
通算:16年 1720 5973 5276 574 1406 225 22 100 1975 597 64 44 168 54 461 15 14 973 143 .266 .324 .374
備考 千葉県館山市出身。中学生までは館山市で軟式野球をしており、当時の顧問の勧めで創立5年目の拓大紅陵高に1982年に進学した。2年夏にはレギュラーの一番打者となり、秋からは三番打者を務めるようになった。同年秋の関東大会では大島公一らを擁する法政二高と準々決勝で対戦し、サヨナラタイムリーを放ってベスト4に進み同校初の全国大会となる選抜大会への出場を決めている。春の選抜大会では初戦の対智辯学園戦で3ランホームランを放つなど3安打4打点の活躍を見せ、二回戦では再び法政二高を破った。準々決勝ではKKコンビを擁するPL学園と対戦して桑田真澄に3打数無安打2三振と抑えられ、チームも完封負けを喫している。3年夏の選手権大会にも出場し、大会前には優勝候補の一角に挙げられた。しかし初戦の対鹿児島商工戦で増永祐一に4打数無安打に抑えられ、5対0で敗れている。高校卒業後は社会人野球へ進む事を決断。3年目の1987年には都市対抗と日本選手権でともに2本塁打を放つなど三番打者として活躍し、初の社会人ベストナインに二塁手として選出された。翌1988年にはソウルオリンピック日本代表に同僚の石井丈裕や中島輝士とともに選出され、二塁手として全試合に先発出場している。予選リーグでは七番、準決勝と決勝では六番打者を務め、チーム3位の打率.368と同1位の2盗塁の成績を残し、堅守と広角打法でチームを支えた。また、決勝戦ではジム・アボットから先制点に繋がる二塁打を放っている。社会人の4年間で通算打率.430、50本塁打を記録し、同年のドラフト会議でオリックス・ブレーブスから2位で指名を受けて入団。契約金、年俸はそれぞれ5,800万円、720万円(推定)。
佐藤幸彦 (拓大紅陵高 内野手) 1986年 ロッテオリオンズ ドラフト4位
















































1987 2 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000
1988 5 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000
1989 15 26 23 0 3 1 0 0 4 2 0 0 1 0 2 0 0 6 1 .130 .200 .174
1990 6 6 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 0 .000 .000 .000
1991 66 158 140 9 31 9 1 0 42 13 0 1 4 1 12 0 0 32 5 .221 .281 .300
1992 53 148 128 13 28 7 2 4 51 12 0 0 5 2 13 0 0 34 2 .219 .287 .398
1993 83 214 199 21 52 10 0 2 68 15 0 1 5 1 9 1 0 52 3 .261 .292 .342
1994 13 33 32 1 6 1 0 0 7 3 0 0 1 0 0 0 0 8 3 .188 .188 .219
1995 42 77 67 8 17 5 0 1 25 7 0 0 4 0 6 0 0 18 2 .254 .315 .373
1996 54 105 88 7 20 4 3 0 30 16 1 0 3 3 11 0 0 20 1 .227 .304 .341
1997 39 57 52 7 12 4 1 3 27 13 0 0 0 0 5 0 0 15 1 .231 .298 .519
1998 104 266 231 32 74 18 0 8 116 41 0 2 2 3 27 3 3 44 5 .320 .394 .502
1999 66 132 113 13 26 8 1 4 48 18 0 0 1 1 17 2 0 23 7 .230 .328 .425
2000 24 62 54 6 17 3 1 0 22 6 0 0 1 0 7 0 0 8 1 .315 .393 .407
2001 97 298 244 28 68 13 0 8 105 31 0 2 4 3 43 0 4 48 6 .279 .391 .430
2002 51 114 107 8 26 6 1 1 37 6 0 0 1 1 5 0 0 15 1 .243 .274 .346
2003 24 42 38 1 8 3 0 0 11 5 0 0 0 0 4 0 0 6 1 .211 .286 .289
2004 30 52 48 4 11 2 0 0 13 3 0 0 0 4 0 0 0 9 1 .229 .212 .271
通算:18年 774 1793 1573 159 399 94 10 31 606 191 1 6 32 15 165 6 8 343 40 .254 .325 .385
備考 千葉県千葉市出身。小学生時代はテニスの選手であり、海外へテニス留学をした経験を持つ。拓大紅陵高では飯田哲也と同級生。1986年のドラフト4位でロッテオリオンズに入団。1993年7月9日の対西武ライオンズ戦で、1試合4犠打の日本プロ野球タイ記録をマークする。90年代前半は準レギュラー程度の出場機会があったが、その後出場機会が減少し控え要員の時代が続いたが、1998年は108試合に出場し、打数は少ないが打率.320、8本塁打、41打点をマークし、クリーンナップも任された。「右の代打」を長く務めたためか、左投手の攻略を得意としており、特に相手の先発が左投手の場合はスタメンに起用されることも多かった「左キラー」だが、左投手のボールを逆らうように引っ張って長打にすることも多かった。 2004年に引退。9月21日の対西武戦での引退打席は、同年齢で同じく引退試合となった潮崎哲也から3球目にライトフライを放った。57番の背番号を18年間連続でつけており、上田浩明(西武)と並ぶ記録。引退後、ロッテのフロントに転身。編成部に所属し、2009年シーズンはロッテと読売ジャイアンツの若手選手から成る連合チーム「シリウス」で、ロッテ浦和球場開催分の監督を務めた。
飯田哲也 (拓大紅陵高 捕手) 1986年 ヤクルトスワローズ ドラフト4位
















































1987 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1988 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
1989 22 11 9 5 1 1 0 0 2 0 1 1 1 0 1 0 0 5 0 .111 .200 .222
1990 117 484 441 69 123 15 6 6 168 33 29 16 8 1 28 0 6 66 5 .279 .330 .381
1991 107 338 298 39 72 8 3 4 98 26 15 8 9 4 27 0 0 51 2 .242 .301 .329
1992 125 574 521 69 153 24 8 7 214 42 33 4 9 2 39 3 3 83 5 .294 .345 .411
1993 103 279 244 35 53 7 2 2 70 21 11 3 7 2 26 4 0 49 4 .217 .290 .287
1994 117 503 458 57 133 19 4 3 169 37 30 14 6 4 34 0 1 54 6 .290 .338 .369
1995 130 582 522 78 132 19 7 7 186 31 35 8 7 3 46 2 4 74 8 .253 .317 .356
1996 105 461 424 62 123 19 3 6 166 37 13 9 11 2 23 2 1 66 4 .290 .327 .392
1997 108 464 421 62 129 15 7 3 167 37 26 10 11 3 23 1 6 43 4 .306 .349 .397
1998 96 317 286 41 81 11 1 1 97 28 9 4 7 1 21 1 2 35 6 .283 .335 .339
1999 72 136 124 16 26 5 0 0 31 3 11 0 2 0 9 1 1 22 3 .210 .269 .250
2000 102 219 190 31 48 7 1 4 69 15 7 6 7 0 21 2 1 41 1 .253 .330 .363
2001 105 212 187 32 55 10 0 1 68 9 6 1 6 1 18 0 0 31 3 .294 .354 .364
2002 33 60 58 8 11 1 0 0 12 2 1 1 0 1 1 0 0 14 2 .190 .200 .207
2003 66 180 156 26 41 8 0 3 58 17 3 2 8 1 15 0 0 31 2 .263 .326 .372
2004 3 11 10 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 1 4 0 .100 .182 .100
2005 54 136 127 11 42 4 0 0 46 15 2 3 4 1 4 0 0 18 5 .331 .348 .362
2006 40 99 88 7 24 1 0 1 28 9 2 2 3 0 8 0 0 13 2 .273 .333 .318
通算:20年 1505 5066 4564 648 1248 174 42 48 1650 363 234 92 106 26 344 16 26 700 62 .273 .326 .362
備考 東京都調布市出身。小学校低学年の頃、王貞治や張本勲のプレーに感動してプロ野球選手になる事を決意した。調布市立神代中学校では投手を務め、3年時に市大会で優勝している。都内の強豪である日大三高や帝京高校への進学も目指したが、中学の野球部顧問と小枝守監督が日大の同級生だった縁もあり、設備や環境に惹かれて千葉県の拓大紅陵高校に入学した。拓大紅陵では同級生に佐藤幸彦(元ロッテ)が、2学年先輩に小川博文(元オリックス・横浜)がいて、学校も野球部の強化に注力していた。入学後は外野手となり、さらに2年になると50m6秒1の俊足と遠投100m以上の強肩という身体能力に注目して捕手にコンバートされた。1986年の3年次には春夏連続して甲子園に出場。春の選抜大会では本塁打を放ち、守備でも1イニングで3補殺を記録するなど5番・捕手として活躍している。千葉大会決勝では後にヤクルトの同期となる土橋勝征を擁する印旛高校を破り、夏の選手権本大会では優勝候補に挙げられるも、3回戦で長谷川滋利(元オリックスほか)を擁する東洋大姫路に0-1で敗退した。同学年の捕手の中では、鷹巣農林高校の中嶋聡(現日本ハム)や西日本短大付属高校の青柳進(元ロッテ・ヤクルト)と並んで飯田はドラフト指名候補として注目を集めていた。同年のドラフトでヤクルトは中嶋の指名を予定していたが、阪急が3位で中嶋を指名したため直後に4位で飯田を指名し、ヤクルトへの入団が決まった。契約金、年俸はそれぞれ2,800万円、320万円(いずれも推定)。